戸澤の週報

2012年09月09日

2012/9/9

9月に入り1週間が過ぎました。
季節の変わり目です。
8月のあの暑さも懐かしくはありますが、これから来る秋を実り多きものにするためにも、頭の中をしっかりとスイッチしなければいけません。

この休みに会社の仲間と山に行ってきました。
両神山という秩父の山です。百名山でもあります。
この山の名称の由来はいくつかありまして、イザナギ、イザナミの神を祀っていることから両神と呼ぶという説が個人的には好きです。
元々山に何の縁もない人間が、なぜ山に行くのかという疑問が自分の中にずっとあります。
もちろん山が好きだからなのですが、なぜ好きかという問題です。
やはり自然が好きなのですが、この自然についてちょっと気が付いたことがあります。
自然という言葉は二通りの意味で使われます。
ひとつは「山の自然」という使い方で、人間が意図的に環境を壊していない、地球のあるがままの状態を指します。
もう一つは「自然な態度」「自然体」など、人に対する使い方です。
この場合の自然とは「無理のない」という意味で用いられています。
大きな括りで言うと、人間があって、その上に自然があります。そして、その上には宇宙があります。
山のような太古からのありのままの世界に身を置いていると、そこにある生命の逞しさと生き抜く厳しさを感じます。
そして、良い意味で生命の循環が自然な状態で進められているのが見て取れます。
そこに生えている木々はただいるだけではなく、長年の風雪に耐えてそこにいます。
そこに倒れている木は、ただ倒れているのではなく倒れなければいけなかった、自然の摂理に従ったままです。
人間はどうでしょう?
無理のない生き方をできているでしょうか?
この場合の無理のないとは、努力をしないということではありません。
先述の通り大自然の木ですら生き抜くための進化の戦いのれっきとした勝者です。
人間も必要とされている努力をしっかりとしたうえで、自然体でいれることが重要だということでしょう。
ここで言う自然体とは「自然の摂理に従うこと」であり「宇宙の摂理に従う」ことです。
このことを山から教わりたいのだと思います。
「人として自然であること」は生涯かけて学ぶのに不足しないテーマでありそうです。
耳を澄ませば、自然がそして宇宙がいつでも答えを教えてくれているのですが。
その声になかなか気が付かないのが人間でもあります。
引き続き、もっと自然を勉強します。
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